クサンチッペの涙…<その4・最終回>

 ソクラテスに対して、死刑判決を下した裁判はどのような裁判だったのでしょうか。実は、史上まれにみる民主的な裁判だったのです。
 アテネの裁判は、一般市民から選出された501人の陪審員が、原告と被告との論争を聴き多数決で審判を下すというものでした。まず任期1年で定員6000人の陪審員をアテネ市民全体から志願者を募って抽選で決めておきます。そして裁判の朝に、その中からさらに抽選で当日の陪審員を決めるのです。抽選は極めて公正に行われていました。
 刑事裁判の場合、まず有罪か無罪かを審判します。ソクラテスの場合、有罪281票、無罪220票で有罪と審判されました。有罪の場合は刑罰を決めますが、原告の求刑に対し被告も自分の刑罰を申告します。そして、そのどちらにするかを陪審員が多数決で決めるのです。ソクラテスは、死刑の求刑に対して最低の罰金刑を申告しました。結果は死刑361票、罰金刑140票で死刑が確定したのです。ソクラテスは多数決により死刑に処せられることになったのでした。民主的とはいえ、多数決で死刑を決するというのは怖いことです。

「軍事に根ざした力」と「軍事に根ざさない力」

 このようなアテネの発達した民主政治はどのようにして成立したのでしょうか。
 アテネでも、もともとは少数の貴族が国(ポリス)を支配していました。貴族は重装騎兵隊を編成してアテネを軍事的に守っていました。貴族の政治権力は、「国(ポリス)を守る者が権力を握る」という考えに根ざしていたのです。
 ところが戦術の変化もあり、国防の中心が貴族の騎兵隊から平民の重装歩兵隊に移っていきました。重装歩兵の武具(槍や盾)は各自で購入しなければならなかったのですが、商業が活発になるにつれて富裕な人々が増え、武具を自弁で揃えて重装歩兵の一員になる者が多く出てきたのです。やがて、重装歩兵たちにも「国(ポリス)を守る者が権力を握る」という考えにもとづいて参政権が認められていくことになります。しかし、まだ武具を買えない貧しい平民には参政権が与えられませんでした。政治権力の源泉は国防、つまり軍事力にもとづくものだったからです。
 紀元前500年、ギリシア世界と東の大帝国ペルシアとの戦争が始まりました。断続的に続くペルシアの攻撃に対し、アテネやスパルタを中心とするギリシア連合軍はよく戦って防衛し続けました。中でもサラミスの海戦(前480年)におけるアテネ海軍の勝利は大きな戦果となりました。この海軍の軍船を三段櫂船といいますが、その船の漕ぎ手として、それまでお金がないために武具を買うことができず重装歩兵にもなれなかった貧しい平民(=無産市民)たちが起用されました。無産市民の海軍が国防上重要な位置を占めるようになったのです。「国を守る者が権力を握る」という考えに従い、アテネでは三段櫂船の漕ぎ手である無産市民にも参政権が与えられたのです。こうして男性市民全員が参政権を持つ民主政治が成立したのです。しかし、軍に参加しない女性と奴隷には参政権は与えられませんでした。いくら気性の激しいクサンチッペといえども参政権は与えられません。参政権は常に軍事力を担うものに限られていたのです。
 政治を動かす力には二通りあります。一つは、常に軍事を担うものたちが握り続けてきた政治権力です。もう一つの力は軍事に根ざさない力、つまりアリストファネスの喜劇のような芸術や文学の力です。戦いが止むことのない歴史が、数千年間続いてきたのは、政治が常に軍事を背景にして動かされてきたからではないでしょうか。芸術や文学の力で平和を訴えたアリストファネス、そしてその喜劇に登場する女性たちの中に、私たちが今、学ばなければならないものがあると思います。

クサンチッペの涙

 ソクラテスはとても勇敢な兵士でした。ソクラテスにつらくあたっていた妻クサンチッペは、彼が戦うこと自体を否定していたのではないでしょうか。彼女がソクラテスにぶっかけた水は、戦いに明け暮れる男たちにぶっかけた水だったのかも知れません。
 ソクラテスは潔く毒杯をあおりました。実はソクラテスは徹底した心身二元論者だったのです。死んで肉体から離れた魂がはじめて真理に到達するのだ、と考えていたのです。死を怖れない勇気はここに根ざしていました。妻クサンチッペは、死刑の日のソクラテスの潔さに耐えられずに取り乱して泣きました。彼女には、ソクラテスの心身二元論的な理論、そこに根ざす死を恐れない勇気を受け入れることができません。「夫ソクラテスの死」という現実の別れそのものが悲しくて悲しくて仕方ないのです。しかし、そのクサンチッペの耐えられなさや悲しさの中にこそ、真に平和を愛する者の心があるように思えてなりません。ソクラテス最期の日に泣いたクサンチッペの涙の中に、今、私たちが求めるべき力の源泉があると思うのです。


(参考文献)

プラトン著『ソクラテスの弁明』『パイドン』他(中央公論社 世界の名著6『プラトンⅠ』 1978年 田中美知太郎 編)
アリストファネス著『女の平和』『女の議会』『雲』(ちくま文庫『ギリシア喜劇Ⅰ・Ⅱ』 1986年 高津春繁 訳)
クセノフォーン著『ソークラテースの思い出』(岩波文庫 1953年 佐々木理 訳)
ディオゲネス・ラエルティオス著『ギリシア哲学者列伝』(岩波文庫 1984年 加来彰俊 訳)

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